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10月 「大阪人」
 

こんなことを言ったら、あの人達は、きっと怒るでしょう。でもこれだけは、
どうしても、避けて通るわけには、いきません。

あの人達とは、そう「大阪人」です。

とくに、東京における大阪人ですね。
まず、なぜ、大阪人は、日本のどこにいても大阪弁を、捨てないかということを考えてみましょう。
東北や、九州の人が、標準語をマスターできて、大阪人にだけ、できないという道理は、ありません。マスターする気がないだけです。
大阪人にとって「大阪人らしい自分」をアピールすることが、生きる為の原動力。大阪弁という大阪人の看板を捨ててしまったら、よりどころを失い、とたんに路頭に迷ってしまうでしょう。
というわけで、一生懸命、大阪人を演じている彼らを暖かい目で、見てあげなくては、なりません。

あのガサツさも図々しさも、彼らに責任があるわけじゃなくて、大阪人としての義務感が、彼らをそうさせているにすぎません。何かというと、「大阪が最高」「東京は、気に食わん」を連発しますが、それも、ひとり、ひとりが、大阪人の代表という意識だからこそ、かといって、ご機嫌をとるつもりで、 「大阪のお好み焼きって美味しいよね」「吉本の人って面白いよね」などと、うかつに大阪を褒めるのは、厳禁です。
大阪人は、「よそ者に、大阪のよさが、 わかってたまるか」と思っていますから、せっかく気を使ってあげたのに、「東京の人は、すぐ、そういうわな」などと、鼻で、笑います。
ひたすら、むこうに、自慢話をするきっかけを与え続けるのが、もっとも面倒が、ありません。
会話の端々に「そういう店って大阪にしかないよね」 「大阪人らしい考え方だね」など、感心したような、ことを一言織り交ぜて
あげると、彼らの努力も報われるというものです。相手の意思を尊重するのが、大人ですから、彼らが、大阪人を存分に演じやすいように、こっちも気を、使ってあげましょう。

は〜ぁ!それにしても世話の焼ける人たちですね。

PS,弁解がましく聞こえますが、ここでいう「大阪人」とは、単に大阪出身の人という意味ではなく、「大阪人」であることをプライドのよりどころしている人達です。


12月「年賀状のマナー」

年賀状とは、その内容よりも、とりあえず、「出した」という事実が大切なものです。
市販の年賀状にPCで、作成した宛名だけであっても、「出さない」という選択よりは、ずっとまし。
年賀状におけるゼロと一との差は、とてつもなく大きいのです。
特に、「こちらからは、出しているのにあちらからは来ない」というのは、「無視か」「私には、返事も書かないってことね」と、人の心を不安にさせるのでした。

印刷された年賀状には、手書きで、書き添えるのが、礼儀、ということになっています。
この時につい書きがちなのは、「たまには、お会いしたいものです」とか「今年こそ、飲みましょう」みたいな一言。

しかし、この手の言葉を年賀状に書いてきた人と、その年に本当に会ったり、飲みに行ったりすることは、ほぼ確実にありません。本当は、会う気が無いのに、書くことが無いので、つい書いてしまったという「たまには」なのです。
「たまには、会いましょう」的な言葉は、本当にその人と3月くらいまでには、会おうと思っている人のみが、書くべきなのです。
不用意な「たまには会いましょう」で、ちょっぴり心を傷つけている人は、意外とたくさんいるに違いありません。

では、余白に何を書けばいいのだという問題ですが、「去年は、箱根に行きました」などの旅行関係、「先日食べたフグは、美味しかった」という食べ物関係などで、小学生の絵日記並に事実そのままを書いてお茶を濁しているのが、現状。

考えてみると年賀状というには、ずいぶん残酷な習慣なのです。
自分の家族関係というものを、年に一度、年賀状によって知り合い皆に公開しなくてはならない。
離婚をしても喪中にならないので、年賀状は、書かなくては、いけません。それは、自分が、普段どれほど人と交わっているのかを計る物差しでもあります。

年賀状書き作業をする時間は、そんなことをすべて自覚するために必要な時間かもしれません。
決して思い通りにならない人生をいうものを、受け入れるための、修行のようなものなのでしょう。

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